今回は無機炭酸塩、特に炭酸カルシウムや炭酸マグネシウムに着目していきます。
炭酸カルシウムはカルシウム (Ca) の炭酸塩です。化学式はCaCO3で、いくつかの安定な結晶多型が知られていますが、最も有名なものはカルサイト(方解石)です。カルサイトは天然に存在し、石灰岩や大理石の主成分です。また、貝殻やサンゴの骨格、鶏卵の殻などにも含まれています。炭酸カルシウムは、樹脂の充填剤や塗料、紙、プラスチックなどの工業製品に広く利用されています。食品添加物や医薬品としても使用されており、特にカルシウム補充のためのサプリメントとして人気があります。
炭酸マグネシウムはマグネシウム (Mg) の炭酸塩です。本エントリでは炭酸マグネシウムの中でも特に塩基性炭酸マグネシウムを取り上げます。市販されている炭酸マグネシウムは多くの場合この塩基性炭酸マグネシウムを指します。塩基性炭酸マグネシウムの化学式は、MgCO3・Mg(OH)2・nH2Oです。塩基性炭酸マグネシウムは、ゴムのフィラー、製紙の充填剤、医薬品や化粧品の添加剤などに使われることで知られています。
今回は無機炭酸塩、特に炭酸カルシウムと炭酸マグネシウムに着目し、それぞれスペクトルの特徴と帰属、その他の無機炭酸塩との比較についてお話ししていきます。
■炭酸カルシウムのスペクトル
炭酸カルシウムのバンドを図1に示します。
図1. 炭酸カルシウムの主要なグループ振動
炭酸カルシウムのATRスペクトルを図2に示します。
図2. 炭酸カルシウムのATRスペクトル
1400 cm-1 付近のブロードな吸収バンド、870, 710 cm-1 のシャープな吸収バンド2本が特徴的です。一般的な有機化合物では1400 cm-1 にこれほど半値幅の広いバンドが現れることはなく、かつ870, 710cm-1 の2本の吸収バンドの強度も強いため、炭酸カルシウムなどの無機炭酸塩を判別する時のわかりやすい目印となっています。
■炭酸カルシウムの吸収ピークの帰属
炭酸カルシウムの特徴的な吸収ピーク波数と帰属を示します1,3) 。
1390 cm-1 : CO3 C-O 逆対称伸縮, ν3 (E’)
870 cm-1 : CO3 C-O 面外変角, ν2 (A”2)
710 cm-1 : CO3 C-O 面内変角, ν4 (E’)
炭酸カルシウムは1400 cm-1 付近に現れる非常に強い吸収と、870, 710cm-1 に現れる鋭く強い2本の吸収バンドが特徴的です。帰属の最後に示した記号 ν3 (E’)等の意味は、こちら のエントリの “ピークの帰属の表記方法について“ の章をご覧ください。3つのバンドはいずれも炭酸イオン (CO3)2- に関連する吸収です。炭酸イオンは4つの原子から成るイオンで、各振動は以下のように帰属されています。
図3. 炭酸イオンの4つの振動モード(このうち赤外活性は ν2, ν3, ν4の3つ)1)
4つの振動モードのうち、ν2, ν3, ν4は赤外活性があり、FTIRで吸収バンドが現れます。一方ν1は赤外不活性です。ν1の振動の対称性が高く、ν1の振動によって双極子モーメントの変化が生じないためです。
これらの3つの吸収バンドのうち、特に吸収強度の強い1400 cm-1 のバンドは、図1のように炭酸カルシウム単体で測定した場合と、炭酸カルシウムがポリマーやその他媒質中に分散されている場合でピーク波数位置が大きく異なりますので注意が必要です。タルクのエントリでも触れましたが、ATRで測定した純物質の炭酸カルシウムのC-O逆対称伸縮のピーク波数位置は低波数側にシフトしています。シフトの理由はタルクのエントリをご覧ください。一方で吸収強度が小さい870, 710 cm-1 のバンドのピーク波数位置は変化していません。
図4. 炭酸カルシウム純物質(黒) /炭酸カルシウムが分散したエラストマー (赤)のATRスペクトル
炭酸カルシウム添加量を減らす、あるいはATR測定に屈折率の高いGeクリスタルを使用することで、炭酸イオンのC-O逆対称伸縮のピーク波数位置は透過法での測定結果に近い1430cm-1 付近に現れます。
■さまざまな無機炭酸塩のスペクトルの比較
炭酸ナトリウム、炭酸カリウムのATRスペクトルを示します。比較として炭酸カルシウムのスペクトルも示しました。
図5. 炭酸カルシウム (黒) /炭酸ナトリウム(赤)/炭酸カリウム(青)のATRスペクトル
いずれも炭酸イオンに基づく3本の特徴的な吸収バンドが観察され、互いによく似たスペクトルの印象を与えます。870, 710 cm-1 付近の2つの変角振動のバンドを詳しく比較すると、ピーク波数位置や吸収バンドの数がそれぞれ異なることがわかります。このようにFTIRで各種炭酸カルシウムを判別できます。一方で容易に想像できるように、Ca, Na, Kなどの無機イオンはSEM/EDSや蛍光X線で元素分析した方が、より確実に区別できます。
図6. 炭酸カルシウム (黒) /炭酸ナトリウム(赤)/炭酸カリウム(青)のATRスペクトル
低波数側を拡大
■塩基性炭酸マグネシウムのスペクトル
次に塩基性炭酸マグネシウムのATRスペクトルを示します。
図7. 塩基性炭酸マグネシウムのATRスペクトル
これまで見てきた無機炭酸塩と比べると、やや複雑なスペクトルとなっています。
■塩基性炭酸マグネシウムの吸収ピークの帰属
炭酸マグネシウムの特徴的な吸収ピーク波数と帰属を示します1,2,3) 。
3650 cm-1 : OH伸縮 (結晶性)
1480 cm-1 : CO3 C-O 逆対称伸縮, ν3 (E’)
1420 cm-1 : CO3 C-O 逆対称伸縮, ν3 (E’)
1120 cm-1 : CO3 C-O 対称伸縮, ν1 (A’1)
885 cm-1 : CO3 C-O 面外変角, ν2 (A”2)
855 cm-1 : CO3 C-O 面外変角, ν2 (A”2)
710 cm-1 : CO3 C-O 面内変角, ν4 (E’)
3650 cm-1 はMg(OH)2 中のOH伸縮振動です。このOH基は結晶中で孤立しているため、半値幅の狭いシャープなバンドとなります。水酸化マグネシウムのOH基の吸収は、無機水酸化物のエントリでも触れました。純粋な水酸化マグネシウムと結晶構造が異なるので、OHバンドのピークトップ位置は水酸化マグネシウムとは異なります。1400cm-1 付近のC-O逆対称伸縮振動は2本に分裂しています。これは炭酸イオンが(OH)-イオンの影響を受け、対称性が崩れたためです2)。870cm-1 のC-O面外変角の分裂も同様と考えられます。一方で、炭酸イオンの対称性の崩れにより、本来赤外不活性のC-O対称伸縮振動が1120 cm-1 に出現しています2)。
■まとめ
- 炭酸カルシウムは、1400cm-1 付近のブロードな吸収バンド、870, 710cm-1 のシャープな吸収バンド2本が特徴的です。これらのピークは炭酸カルシウム、炭酸ナトリウム、炭酸カリウムなどの無機炭酸塩を判別する時のわかりやすい目印となっています。
- 塩基性炭酸マグネシウムのATRスペクトルは他の無機炭酸塩と比べて複雑です。炭酸イオンの対称性が崩れることでピークが分裂したり、本来赤外不活性のC-O対称伸縮振動が出現するためです。
次回は、硫酸バリウムや硫酸カルシウムなどの無機硫酸塩を取り上げます。お楽しみに!
■異物スペクトル解析シリーズ
随時更新していきます!ご期待ください!
① 有機物か?無機物か?
② ポリエチレン
③ ポリプロピレン
④ スチレン系樹脂
⑤ ポリ塩化ビニル (塩ビ樹脂)
⑥ アクリル樹脂
⑦ ポリエステル
⑧ ナイロン(ポリアミド)とタンパク質
⑨ セルロース
⑩ ニトリル系樹脂
⑪ ウレタン樹脂
⑫ ポリカーボネート
⑬ シリコーン樹脂
⑭ フッ素樹脂
⑮ イミド系樹脂
⑯ エポキシ樹脂
⑰ エチレン酢酸ビニル樹脂(EVA)
⑱ ポリアセタール(POM)
⑲ 芳香族ポリエーテルケトン(PEEK)
⑳ 芳香族ポリスルフィド(PPS, PES)
㉑ 無機酸化物(シリカ, ガラス)
㉒ 無機酸化物(アルミナ, 酸化鉄)
㉓ 無機酸化物(酸化チタン, 酸化亜鉛)
㉔ 無機水酸化物
㉕ 無機ケイ酸塩鉱物(タルク, カオリン)
㉖ 無機炭酸塩 (炭酸カルシウム等) ← Now!!
㉗ 無機硫酸 (硫酸バリウム等)
㉘ 砂と土
㉙ 天然ゴム・イソプレンゴム
㉚ SBR
㉛ NBR
㉜ EPDM
※タイトルと内容は変更する可能性があります。
■参考文献
1) K. Nakamoto, Infrared and Raman Spectra of Inorganic and Coordination Compounds Part A 5th edition
2) 宇津木ら,粉体および粉末冶金, 29, 5, p176
シリーズ全体を通して、各ピーク波数の帰属は以下の参考文献に基づいています。
3) N.B. Colthup, Introduction to Infrared and Raman Spectroscopy Third Edition
4) 堀口博, 赤外吸光図説総覧
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異物スペクトルの解析㉕ 無機ケイ酸塩(タルク・カオリン)